2011年8月18日木曜日

正力亨の画像

正力亨の画像



正力亨の画像については、
次のようなものがあります。





正力亨さんの画像として有名なものには、
次のようなものがあります。

>  
> 1978年に江川卓を巨人が獲得したときにあった、
> 空白の1日の後、江川卓投手との契約を発表する正力亨の画像
>  
> 1974年に長嶋茂雄さんを巨人の監督として
> 迎え入れたときの正力亨の画像
>  

正力亨は、父親の正力松太郎さんのやり方を
そのまままねているだけというイメージをもたれやすい方です。

そのため、父親である正力松太郎さんが「大正力」と呼ばれるのに対し、
息子である正力亨さんは、「小正力」と呼ばれることもあります。

しかし、正力亨さんは、
巨人軍を愛し、長島茂雄さんを監督にしたり、
王貞治さんを監督に向かいいれるなど、
巨人に対しての思い入れは、人一倍強い方でした。

経営能力等については疑問視されることも多い一方、
巨人が優勝したときは、
60歳を過ぎていながら、
ベッドの上で飛び跳ねて喜ぶ姿も見られました。

正力亨と息子

正力亨と息子



正力亨の父親である正力松太郎は、
「大正力」とも呼ばれ、
「テレビの父」、「原発の父」とも呼ばれました。

正力松太郎さんには、血のつながる2人の息子がいます。

本妻の息子さんである長男の正力亨さん、
妾の息子さんである異母兄弟で次男の正力武さんの2人です。


正力松太郎さんは、ワンマン的な面を持っていました。

そのため、正力松太郎さんは、
朝日新聞・毎日新聞に劣っていた読売新聞を、
ヤクザによる押し売り的な新規の拡張販売を行い、
発行部数を伸ばしたとも言われています。

また、正力松太郎さんは、
「正力コーナー」や「お召し列車」と呼ばれる、
正力松太郎を持ち上げる報道を、
読売新聞の紙面や日本テレビの放送で行いました。

正力松太郎さんは、政治家とのつながりも深く、
昭和31年には原子力委員会の初代委員長に就任し、
同年、科学技術庁の初代長官になっています。

そして、原子力発電所の建設に
大きく関係していました。

昭和44年10月9日に、読売新聞の社主でもあった
正力松太郎さんは、
84歳で亡くなります。

正力松太郎さんは、晩年、2人の息子である、
正力亨さんと、正力武さんを、要職に位置づけていました。

息子である長男の正力亨さんは、日本テレビの副社長。

息子である次男の正力武さんは、日本テレビの取締役。

また、娘の婿である小林与三次さんは、読売新聞の副社長。


正力松太郎さんの死後は、
それぞれ降格されました。

息子である長男の正力亨さんは、日本テレビの平取締役。

息子である次男の正力武さんは、日本テレビの非常勤取締役。

一方、娘の婿である小林与三次さんは、日本テレビの社長。

なお、読売新聞の社長には、務台光雄が就任しました。


これらの人事は、正力松太郎さんの死後、
7ヶ月半の間に行われました。

その後、正力亨さんは、読売新聞社の社主となります。

また、正力亨さんは、日本テレビにいた正力武さんを追放し、
正力武さんは、自分の人生を呪うように酒を浴びるほど飲み続け、
51歳で亡くなりました。

「大正力」と呼ばれた正力松太郎さんと比べると、
息子の正力亨さんは、正力松太郎さんが行っていたことを、
そのまま行っていただけ、という印象をもたれやすく、
「小正力」と揶揄されることもありました。

また、渡辺恒雄に実権を握られていた、
というイメージも強く、
「お飾り」と思われている面もありました。

正力亨(しょうりき・とおる)

正力亨(しょうりき・とおる)



正力亨(しょうりき・とおる)さんは、
プロ野球巨人軍の名誉オーナーで、
読売新聞グループ本社の社主でもあった方です。


正力亨(しょうりき・とおる)さんは、
8月15日、敗血症のために、
北里研究所病院で92歳で亡くなりました。

正力亨(しょうりき・とおる)の家族の希望で、
密葬が行われ、
後日、「お別れ会」が開催されます。

正力亨(しょうりき・とおる)さんは、
慶応普通部時代は、投手・兼・4番バッターとして活躍。

また、正力亨(しょうりき・とおる)さんは、
慶応大学時代は、野球部のチーフマネージャーも勤めました。

そのため、野球への思いいれも強く、
父親である正力正太郎さんの

>  
> 「巨人軍は常に強くあれ」
>
> 「巨人軍は常に紳士たれ」
>
> 「巨人軍はアメリカに追いつけ、そして追い越せ」
>  

という教えを奨励しました。


正力亨(しょうりき・とおる)さんは、
純粋に巨人のことが大好きな方であり、
巨人軍がリーグ優勝を果たした1987年には、
ホテルの一室でベッドの上で飛び跳ねて喜ぶなど、
「変人」扱いされるほどでした。

正力亨と渡辺恒雄

正力亨と渡辺恒雄



正力亨は、読売新聞グループ本社の社主の他、
よみうりランドや日本テレビの取締役、
報知新聞社の社長なども勤めた方です。

一方、渡邉恒雄は、
ナベツネという通称で親しまれている、
読売巨人軍の会長。

1926年(大正15年)5月30日生まれで、
2011年8月現在、85歳になります。

渡邉恒雄は、読売新聞グループ本社の
代表取締役会長でもあります。

渡邉恒雄は、
東京帝国大学(東京大学)文学部哲学科を卒業後、
読売新聞社に入社しました。

そして「週間読売」の記者を経て、
政治部の記者になりました。

渡邉恒雄は、その後、
正力亨の父親である正力正太郎さんに目をつけられ、
自民党の大物である大野伴睦の番記者になり、
政界との強いつながりを持つようになります。

渡邉恒雄は、大野伴睦だけでなく、
児玉誉士夫ともつながりがあり、
九頭竜ダム建設の補償問題や、
韓国交正常化交渉で暗躍したとも言われています。

また、大野伴睦の死後は、中曽根とも親密になり、
数々の政治家との関係を取り持つ役割を果たしました。

ジャーナリストとしての評判も高く、

>
> 戦後に現れた組織ジャーナリストの中でも、
> 彼はテクニックにおいては最高の人でしょう
>

と評されたこともあります。

渡邉恒雄は、
1977年に編集局総務に主任、
さらに1991年に読売新聞社社長に就任しました。

2005年には読売新聞グループ本社に。

渡邉恒雄は、
自民党の党員や元自民党らに多大な影響力を持っているとも言われ、
2007年の自民党・民主党の大連立構想の黒幕であったとの
ウワサもあります。

一方、渡邉恒雄の巨人軍オーナーとしての活躍は、
1989年に巨人軍の最高経営会議のメンバーに
選ばれてからです。

1996年に、巨人軍のオーナーであった正力亨を
名誉オーナーにして、
渡邉恒雄がオーナーに就任しました。

渡邉恒雄自身は、
「野球はやったこともなく興味もなかった」ですが、
巨人の人気や資金力、読売新聞や日本テレビを元にして、
プロ野球界に多大な影響を与えました。

特に、資金力のある球団が優位になるFA制度を
日本のプロ野球に導入する際は、
オーナー会議で他球団の同意を強く求め、
FA制度を導入することを実現させました。

しかし、2004年、一場靖弘を巡る
裏金供与問題の責任を取るため、
巨人軍のオーナーを辞任しましたが、
1年足らずで巨人軍の会長となっています。

正力亨氏とWiki

正力亨氏とWiki



正力亨氏のWikiをまとめました。


正力亨氏の名前は、
「しょうりき とおる」と読みます。

Wikiによれば、
正力亨氏は、1918年10月24日生まれで、
読売新聞グループ本社の社主です。

また、正力亨氏は、読売ジャイアンツの
名誉オーナーでもあります。

正力亨氏は慶応義塾大学経済学部を卒業後、
王子製紙への入社、
海軍経理学校への入校を経て、
戦時中は海軍に勤めていました。

正力亨氏は復員後は、王子製紙に戻りましたが、
1956年(38歳頃)に読売新聞社に入社。

1960年(42歳頃)に読売新聞社の取締役に。

1964年(46歳頃)に報知新聞社の社長や、
読売ジャイアンツのオーナーに。

1970年(52歳頃)に読売新聞社の社主、
2002年(84歳頃)に読売新聞グループ本社の社主に。

しかし、2011年8月15日、
敗血症のため、92歳で亡くなりました。


なお、正力亨氏の父親は、正力松太郎で、
元読売新聞社の社主。

正力松太郎さんは、
読売新聞社の部数拡大に成功したため、
「読売中興の祖」とも呼ばれ、
その他、「プロ野球の父」、「テレビ放送の父」、「原子力の父」とも
呼ばれる方です。

元々、正力家は、一介の庶民の出でしたが、
正力亨氏のの曽祖父が江戸時代に、
川の氾濫を防いだ功績により、
名家として名を残すようになりました。

読売新聞は、
正力亨氏の父親である、正力松太郎さんが
読売新聞の経営権を買収し、
社長に就任したことで、
正力家により経営されることになりました。

また、昭和9年に巨人軍を創設したのも、
正力亨氏の父親である、正力松太郎さんです。